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![]() 辻標に、鉄砲足軽300人が寛永7年(1630)よりこの地に居住した と記された仙台市三百人町。 仙台藩の奨励により、足軽たちが内職で筆をつくるようになったことから、 しだいに仙台筆づくりは盛んになっていった。 その伝統ある三百人町で、 いまも丹精込めて筆づくりを続ける職人がいる。
三百人町に居を構える大友毛筆店は、明治8年創業。4代目の大友博興さんが職人を続けている。足軽だった大友長左衛門が初代。2代長七、3代長一郎と続いてきた。明治末ごろには仙台の毛筆製造業者は300軒以上あったが、昭和初めには100軒に満たないほどになったとされる。3代の隆盛時は職人60人をかかえていた。従業員で野球チームをつくっていた当時の写真が残っている。製品は北海道・東北一円に卸しており、小売もしていたのだという。 江戸期以来の伝統をもつ仙台筆は、やがて技巧も繊細となり、丁寧な技法や仕事ぶりで生み出される筆の名声はしだいに高まっていった。かつては宮城野の萩を筆軸にした、野趣あふれる「萩筆」や「五色筆」などもつくられていた。 しかし時代の移り変わりとともに、筆に求められるものも次第に変わってきた。3代が46歳の若さで亡くなったとき博興さんは、まだ12歳だった。当時大友家には20人ほどの職人がいたが、12人残った職人とともに博興さんは高校に入ったころから筆づくりを始めた。小売はしなくなった。とくに腕のいい職人から筆づくりのすべてを学んだ。東北本線や新幹線の高架が通り、かつて工場があった土地はだいぶ削られたが、創業地のまま、ここで筆づくりを続けている。 書家は、毛の質の高さを求め、滑らかで持続性のある書き味を求める。軸の装飾がまずあるのではない。「伝統の仙台筆も、丹念に、地道に、技を駆使していいものをつくってきたからこそ、その名が続いてきた」と大友さんは話す。 筆づくりはまず、仕入れた原毛の束を少しずつ小分けにして、指の触り具合でいくつかの山に分けていく。同じ種類の毛でも、使う部位によって太さ、硬さが異なるために、分け方も単純ではない。選毛した束は煮沸して消毒し、乾燥の後、籾殻を焼いてつくった真っ白い灰をまぶして揉みあげる。原毛の脂分を取り除き、墨含みをよくするためだ。 揉み上げた毛は櫛を入れ綿毛を除く。さらに人差し指の腹と、親指をあてた小刀の先で毛を挟んで逆毛や擦れ毛を探りあて、抜き取っていく。 筆の穂首は、同じ種類の毛で同じ長さに切られているわけではない。いちばん先端になる命毛、第二段の長さになるのが喉毛、第三段が腹毛、第四段が腰毛と、いくつかの異なる種類の兼毛でつくられる。筆の大小・長短・剛柔に応じて、これらの部位に使われる毛が選び分けられる。一般的な小筆は、命毛には羊やイタチ、喉にはタヌキ、腹と腰には鹿の毛が使われることが多い。 どんな毛の組み合わせにするか、どれほどの間隔で段をつけるか。それによって筆の書き味、墨のつき具合、筆跡の滑らかさなどが大きく変わってくる。「質のいいものとは、高い材料を使うことではなく、どの段階でも手を抜かないこと」。大友さんは、いつもそう考えて筆をつくってきた。 板状に固められた毛の束をガラス板の縁のところで薄く広げていく。その上に次の段の毛を重ねる。次に端からクルクルッと折り畳んでは、それに櫛を入れて整え、また薄く伸ばす。これを何回も繰り返す。 練り混ぜた毛は所定の筒に通して太さを均一にする。その後、1本分の毛の外側に上質の毛を上毛掛けし、根元を麻糸でしばり、底に一瞬だけ焼きごてをあて、焼き締める。 筆の軸を台の縁のところで回転させながら、細い小刀を穴にあて、かすかに削り広げる。そこにぴったりと穂首をはめる。本来は接着剤をつけてはめるのだが、接着剤をつけない状態で大友さんは「はめたものを触ってみて」という。おそるおそる抜こうとしてみたが、いま目の前で軽くはめた穂首が、どうやっても抜けなかった。仕上げはフノリを穂首に含ませ、櫛でとき、口にくわえた糸を穂首の根元に回しかけ、先端までしぼりこんで余分な糊を取り除きつつ形を整える。 大友さんは、格別銘を入れたりすることなく、自分の目指す良品をつくり、手にした人に喜んでもらいたいと、やわらかな日が差す工房で繊細な作業を続ける。
text:Toshitsugu Matsuda, photographs:Kiyotaka Shishido |
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