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![]() ![]() ●山形大学大学院理工学研究科の研究棟。先端的な研究が、産学連携やベンチャービジネス・製品の実用化など、新しい局面への展開を生み出している。 ![]() ●山形大学大学院理工学研究科 有機デバイス工学専攻 教授 城戸淳二さん ![]() ●城戸研究室には、研究者、地元企業のトップ、大手家電メーカーの開発担当者、自治体の担当者、海外の研究者・研修生などが、毎日のように来訪する。 城戸教授もまた、全国各地の会議や講演会、国際会議へと飛んでゆく。 ![]() ●有機ELの発光には2種類ある。「蛍光」と「リン光」だ。その仕組みをわかりやすくマンガ仕立てで解説したパネルが研究室に掲げられていた。 ![]() ![]() ●カーオーディオのディスプレイパネルや携帯電話のディスプレイ画面など小型のディスプレイには、すでに有機ELが幅広く実用化されている。 大型ディスプレイの量産も目前に。 ![]() ●デジタル時計のディスプレイ表示に有機ELの発光を応用した製品。 有機ELは非常に応答速度が速い。 液晶のように見る方向によって階調が変わってしまうという現象もなく、視野角は180度に近い。 |
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奥行きが数10cmあったブラウン管から、液晶などの薄型テレビの時代に変わり、さらに薄いフィルム状の膜に映像が映る時代になる。その薄い有機物の膜に電圧を与えて光らせる技術が有機EL(エレクトロ・ルミネッセンス)だ。この技術が世の中に登場して、まだ20年と少し。今に至る技術開発の歴史の中で、最も基幹となる白色有機ELの発光を世界で初めて成功させたのが、山形大学工学部の城戸淳二助手(当時)だった。そしてまさしく研究者城戸が、山形でさまざまな研究開発を行ってきたことが、そのまま日本と世界の有機ELの歴史だと言っても過言ではない。 城戸さんの有機EL研究の発端は、早稲田大学応用化学科四年の時に高分子化学の研究室に入った頃に遡る。当時、人工血液など高分子化学の先端研究を進めていた土田英俊教授から「名前が城戸くんだから、希土類を研究してみたら」と言われた。この冗談のような話から、有機EL研究の第一歩が始まった。希土類とはテルビウム、ユウロピウム、セリウムなど17種の元素のことで、蛍光体などの材料になる。あまりなじみのない分野だったが「やり始めると非常におもしろかった」という。卒業というときになって、土田教授から高分子研究の先端機関として知られたニューヨークのポリテクニック大学に行けと言われた。まったく予期せぬことだったが、教授の勧めとあれば行かざるをえない。 「自分だったら、いま教授をしていて、やる気はあっても成績が後ろから3番目ぐらいの学部生に、とてもニューヨークに留学しろとは言わない。土田教授がなぜ行ってこいと言ったのか不思議だが、修業ということだったのだろう」。 万事、楽観的に考えてアメリカに渡ったのだという。しかし、世界から集まったライバルとの競争があり、テストに合格しなければやめなければいけない大学。知り合いもなく、言葉もわからない、過酷な環境。「生まれ変わらざるを得なかった」と城戸さんは表現する。「人生でいちばんたいへんで、いちばん濃密で、いちばん楽しかった」5年間だった。 アメリカ最後の年となる1989年、有機ELとの出会いがあった。蛍光性のある希土類のプラスチック板を見ていて電気で光らせる発想が出てきた。有機物はふつう絶縁体として使われることが多く、電気で光らせようなどと考えるものではなかった。希土類を使って光らせるための実験がスタートした。留学の後そのまま米国でベル研究所とかIBMへの就職をと考えていたところ、恩師土田教授から今度は山形大学の助手にと勧められた。第二の転機だった。
●右上/材料を高温で気化させて、ガラス基板などに膜として均質に付着させる真空蒸着機など、最新鋭の設備が整う研究棟。 1989年山形大学に着任した城戸さんは、希土類を使って光らせようとの情熱を、そのまま継続させた。アメリカでは結局光らせることができなかったからだ。山形に来てから、アメリカのコダック社タン氏の1987年論文を知った。これが有機ELの最初の発明とされる。しかし城戸さんは、希土類を使えばタン氏の仕組みより、もっときれいな光を出せると思った。 山形大学には、当時「フラスコぐらいしかなかった」と城戸さんは振り返る。化学の研究室に、有機薄膜を積層させる機械(蒸着機)などなかった。他学科からさまざまな設備を借りたり、他の大学まで借りに行ったり、城戸さんの仕事は器具や設備の調達から始まった。「最先端の設備は望むべくもなかったが、ベーシックな設備をどう動かして、どういう結果を引き出すか。そういう基本の訓練や機械の原理を学ぶこともできた」と話す。最初からボタンひとつで操作できるような機械だったら、何も考えずに流れていったかもしれない、と。 その当時、有機ELの世界では青や赤や緑はすでに発光することができていた。だが、白はまだ誰も出せていなかった。ある日、城戸さんは学生とともに有機パネルで赤い色を出そうと実験していた。ふつうは青色のポリマー(高分子有機化合物)がエネルギーの低い赤色に移って赤に光る。ところがその時は赤をつくる実験としては失敗した。移る効率がわるかったために青がちょっと光り、赤もちょっと光り、そこに白っぽい光も出てきた。実験をした学生が、意図した赤が出なかったため、がっかりして城戸助手のところに報告に来たが、城戸さんは飛び上がった。「白色」の出現を直感した。ちょっと緑を加えて、ついに白を出した。1993年(平成5年)、世界で初めて有機ELで白の発光に成功。論文で発表して以降、有機EL開発環境は劇的に動き始め、世界の中で日本がリードすることになるが、その大部分の基盤になっているのが城戸さんの白色の発見だった。 助手として着任してから13年後、教授となった城戸さんは、有機EL研究の第一人者として経済産業省・NEDO「高効率有機デバイスの開発」国家プロジェクトの研究総括責任者に任命された。また地元山形では、山形有機エレクトロニクスバレー構想の中核拠点施設である有機エレクトロニクス研究所の所長に任ぜられた。もともと電気・機械工業を中心とした工業都市だった米沢市には、精密機械加工技術や組立技術に優れた企業が多く存在していたが、有機ELという指標が定まり、以降、産業集積を目指した取り組みが行われてきた。 経済産業省や文部科学省の局長レベルと討論し、企業のトップや自治体の長との交渉なども増えた。「研究者というよりもコーディネーターとかオーガナイザーのような役割になってきた」。城戸さんの有機EL研究の周辺に、3つの企業も生まれた。有機ELディスプレイパネル製造の「ルミオテック株式会社」、有機EL照明器具の製造販売会社「オーガニックライティング株式会社」、有機ELの研究開発を行う「ユウロピウム」。城戸さん自ら出資している。「ユウロピウム」は城戸さんが社長をつとめるベンチャーである。 2010年段階で有機ELは、小型のディスプレイ部門ですでに量産態勢に入っており、テレビの大型ディスプレイでも、まもなく液晶にとってかわるものと目されている。また有機ELは照明の局面でも、面そのものが発光するという革命的な進化をもたらした。しかも0.1mm以下の膜を発光させることができるため、天井などに貼り付けて使うことができる。
城戸さんは現在、大学院理工学研究科有機デバイス工学専攻の教授として、有機EL最前線の研究を怠らない。満足な実験設備など何もなかった山形大学に助手として赴任してから、20年以上。いまや山形大学の研究棟には2フロアに有機EL研究のための最新設備が整い、新たな実験棟も建設中だ。 それでも有機ELは「まだまだわからないことが多い」のだという。赤い色をさらに効率を高くすると、もっと深い赤になる。寿命はだいぶ長くなってきたが、まだまだ長くしないといけない。とにかくさまざまな未知の領域があるのだという。素子の構造は電極に有機物をはさんだ3層になっていて、食べるサンドイッチと似ていると、城戸さんは説明する。パンに塗るものと具材を工夫して、だんだんおいしくなるように、さまざまに改良を加えていく。手間がかかると当然コストが上がるので、それをいかに上がらないようにおさえるか、そのプロセスまで開発することになる。もともと有機ELは学際的な分野で、材料、素子、駆動させる回路、全部やらなければいけない。高分子化学の研究で、電子工学の領域である半導体の勉強までする。開発の段階でも、素子メーカー、材料メーカー、ガラスメーカー、などとの協同作業が欠かせない。基礎研究と技術開発、製品化までの境目がない。城戸さん自身がそういうスタイルをつくりあげているのだ。 微力だが、これからは次世代のためにも貢献できればと話す城戸さんは、時間を見つけて中学生・高校生向けのイベントや講演会も行う。そういうところに来る高校生はやる気があるのだという。実験をしてみせると刺激されて興味をもってくれる。山形大学に行きたいと言ってくれることも多い。「そういうやる気のある子どもたちにちゃんとした教育をしてやらないと、何にも伝わっていかない。自分が教育を受けてきた環境を考えてみると、アメリカに行ったからいまの自分がある」と城戸さんは話す。「いまの子どもたちはしつけも満足にされず、なまぬるい中で育って、しかもわがままになっている。これをなんとかしないといけない」。 指導者がどのように子どもや若者に刺激を与え、発奮させるか。そして豊かな発想力と着実な行動力で未知のものを切り開いたり、変革したりするような次世代層を育てなければ、これから世界の中で生きていけなくなる、と城戸さんは力説する。「それは工学だけではなく、あらゆる分野で言えることで、いろいろなジャンルで日本をひっぱるような人材の教育というテーマが、自分にとっては新しい関心の対象になりつつある」。 これまでの有機ELの研究生活は「小さい成功の積み重ね」と語る城戸さん。その積み重ねに邁進できたのは「ハングリー精神」であり、そして小さい成功を体験する度に「自信」がついた、と。技術立国復活のためのキーワードも、難しい理念などではなくシンプルなテーマの中にある。 text:Toshitsugu Matsuda, photographs:Kenji Aizawa |
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