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ありし日の姿。後ろの絵に描かれたランプが、左の机の上に見える。 |
![]() ◎宮城県美術館 有川幾夫
美術館に勤めていると時々、「あなたも絵を描くのでしょう?」と聞かれることがある。けれどもこれが小学校、いやその前から、からっきし駄目である。「自由に描きなさい」などといわれた日には、知らない国に突然放り出されたくらい途方に暮れる。弁解しておくと絵を見るのは好きである。子どもの頃、家にあった週刊誌に高橋由一の《鮭》の絵が載っていてびっくりした。作者も題名も知らずにいたが、見ているだけで唾が出てきそうな、半身を開かれてぶら下がっている「塩引き」の絵は、大人になってからでも間違いようがない。目に見えるものを画布に写すというのは魔術のような恐ろしい「技」であると、今ならいうことができる。 もうひとつ、美術館勤めで何度も訊ねられるのは、「絵の見方を教えて欲しい」という問いである。無理もない質問なのだが、よく考えてみると「小説の読み方を教えて欲しい」とか「音楽の聴き方を教えて欲しい」という問いは余り聞いたことがない。「夏目漱石というのはどんな人か?」とか「ベートーベンの《運命》の特徴は何か?」とか、話はもう少し具体的な気がする。 そこで杉村惇さんである。杉村さんはもっぱら静物画を描いた。つまり具象画である。 しかし、この具象というのが実は曲者である。しばしば「具象だ(写実だ)」「何々が描いてある」「本物みたいだ」といった具合で終わってしまう。音楽や文学と美術はどこが違うのか。音楽や小説は、聴き終わるまで、読み終わるまでそれなりの時間がかかる。けれども絵はいちおう一瞬の間に見て取ることができる。そこで見る人もすぐに答えを求めたがるのかも知れない。しかし音楽家だって小説家だってもちろん画家だって、時間をかけて制作することに変わりはない。この「時間」にはふたつある。ひとつは1作品に費やす時間。もうひとつは生涯をかけて納得のいく作品を追求する時間である。 具象というと目に見えるものを右から左に移すようなものだと漠然と思われがちだが、何しろ「魔術」であるから、種も仕掛けもある。そして何より修練が大事だ。種や仕掛けを遠近法や明暗法、あるいは構図とか配色とかタッチといってしまうと簡単に過ぎるが、それを悟らせないのが修練ともいえる。杉村さんはこの修練ということを、生涯怠ることがなかった絵描きだったのではないか、と思う。 2001年(平成13)、93歳で亡くなるまで杉村さんは常に求道の人であった。 杉村さんは1907年(明治40)、東京に生まれた。1927(昭和2)、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。3年次からは岡田三郎助の教室に入り、在学中の1930年(昭和五)、第11回帝展に《パン》が初入選している。卒業の年、1932年(昭和7)に光風会展でF氏賞を受賞するなど早くから頭角を現し、1933年(昭和8)に始まった東北美術展(現・河北美術展)では第1回《婦人像》、第2回《ミシン》と連続して河北賞を受けている。だが戦時下の1945年(昭和20)、空襲により東京のアトリエも作品も失って仙台に疎開。以後、塩竈と仙台に住んで東京には居を戻さず、画壇的には帝展、日展と一筋の道を歩んだ。また、東北大学、宮城教育大学教授として後進の教育に当たったことも逸することのできない業績である。1996年(平成8)には仙台市名誉市民に推されている。 周知のように作風は一貫して堅実な写実を追求し、特に静物画に熱心に取り組んだ。このことには誰も異存はないだろう。しかし、堅実とか一貫とかいうのがまたまた曲者で、堅実というと何か保守的な感じがするし、一貫というと変化がなさそうに聞こえる。しかしよく見ると、杉村さんの画作の歩みは思った以上に起伏に富んでいる。
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