白い国の詩
2010初夏号

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●上は、髭をのばし、カラーもネクタイもつけず、編み上げのブーツで建築家人生を貫こうとした遠藤新。その特異な風貌・衣装は、建築家としての遠藤の内なる力を引き出したであろう。
下写真は、帝国ホテルの現場事務所で。右から林愛作、フランク・ロイド・ライト、遠藤新(遠藤現 建築創作所写真提供)。


7.帝国ホテルライト館玄関前。一部完成を間近にした1921年(大正10)、工事関係者とともに。後列左端が遠藤。
(遠藤現 建築創作所写真提供)
 
 
 
 
  ◎特集 東北、近代建築の輪郭
 
至上めざす 建築の行者 遠藤 新
 
近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトと親子のような信頼関係があった遠藤新。
世代と文化を超えた2人の価値観を繋いだのは、自然に即し人の生活を尊重した建築理念。
遠藤の建築は大陸を渡り、大きく展開する。
帰国後は世間と経済の論理に屈せず、学校建築の多くを東北地方で実現した。
  1.甲子園ホテル(現・武庫川女子大学)南側上部を西から望む。手前の柱は遠景の庇と同じ装飾が重層し、滴る小さな球体は一つに結集し、落下を待つ。中央の壁面彫刻は、無限に天下る水の様態を独特の自然観でおおらかに表現。
※武庫川女子大学写真提供。

文=黒田智子 Tomoko Kuroda
武庫川女子大学短期大学部生活造形学科教授。
1958年生まれ。京都工芸繊維大学工芸学部住環境学科卒業、神戸大学大学院自然科学研究科博士課程単位取得退学。スイス連邦工科大学客員研究員を経て現職。作品にキャンパスのコンセプトデザイン「生命の秩序を織りあげる」、空間デザインのための教育装置「実体験ラボ」の創設など。
著書に『作家たちのモダニズム』(編著・学芸出版社)、『近代日本の作家たち』(編著・学芸出版社)などがある。
 
 
2.西翼部宴会場の天蓋を支える4本の柱には、それぞれ黄金の半球体が配され、光とともに黄金の雨水を受ける。
3.宴会場入り口上部の打出の小槌は、中央および周囲に擁する小槌と無限に響き合い、恵みの雨を生み出す。
4.緑釉瓦(りょくゆうがわら)の棟飾りには、松葉見立てに露のような球体が連続。これらは、打出の小槌を経て、隅棟瓦へと斜めに滑り落ちていく。
5.天蓋の縁に重層する黄金の装飾は、それぞれのパーツの中央に小さな球体が縦に連続し、やはり一つに集まり落下を待つ。
6.宴会場南壁の装飾。中央にはやはり縦に球体が連続する。これらを遮る二つの長方形の間から、かつては実際に水が流れ出ていた。
※2〜6武庫川女子大学写真提供。
 
 
 
 1930年(昭和5)、兵庫県武庫郡鳴尾村(現・西宮市)に名建築と謳われた滞在型のリゾートホテル、甲子園ホテルが竣工した。このホテルを設計した建築家・遠藤新(あらた)が大切にしたのは「まず地所をみる 地所が建築を教えてくれる」「見渡す限りが敷地」という姿勢である。甲子園ホテルは次のように構想された。
 「松の緑と一つなる緑の屋根は、層より層に静かに水辺に近づくのです」。
 
水の建築
 
 ホテルの設計は、阪神電鉄が帝国ホテルの支配人を務めた林愛作(あいさく)を呼び寄せたことに始まる。遠藤は、やはり林の紹介で近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトの右腕として帝国ホテル(1923年竣工)の実施設計を支えた経験をもっていた。日本語の出来ないライトの代わりに、10名ほどいた日本人スタッフにその意向を伝え、昔気質の意地と誇りをもった職人たちを説得しなければならなかった。30代前半をそのような現場で堪え自らを鍛え上げた。
 
 その実力は、電鉄側への基本設計の提示からホテル開業まで僅か1年7カ月であることからも窺える。「層より層に静かに水辺に近づく」ように意図した建築形態には、細部にわたって豊かな水の表現がある。
 
 シンボルとした打出の小槌は土地の歴史に由来し、ホテルが結婚式場としても用いられたこと、経営上の成功などを考え合わせ、守り神にふさわしい。このシンボルと組み合わされた装飾には球または円の様々なモチーフが見られる。例えば、棟飾り頂上に始まる球体は、打出の小槌の装飾を経て、隅棟瓦(すみむねがわら)の稜線を並んで下降(写真4)。高い独創を示す二重軒瓦、次に日華石の庇の下端に水平に並ぶ(写真1/注1)。天からの恵みの雨が滴っているかのようである。宴会場の庭に面した出入り口の両側には、やはり日華石の精緻なレリーフがあり、かつてそれぞれに吐水口があった。恵みの雨はこの吐水口を経て、人々の歩みに導かれ、屋形船の待っている船着き場から池に至る。水の流れと一体に人の動きを促すこのような装飾は建築の内外に配された。それらは船遊びを演出し、周辺農地をも潤し恵みをもたらすという、豊かな水の物語を紡いでいる。
 
偉大への意志から建築へ
 
 遠藤新は1889年(明治22)、福島県相馬郡福田村(現・新地町)に生まれた。成績優秀だった遠藤は、旧制二高から東京帝国大学へと、どちらも一番という成績で入学を果たす。並外れた努力家であった証であろう。さらに遠藤には正義を重んじ偉大さに強く憧れる気質が少年の頃からはっきりと顕れていた。台湾高等法院長を務めた同郷の高野孟矩は、司法独立の立場から中国人を日本人との差別なく平等に裁判したことから解任された。その高野に実際に接した遠藤は、自らも勤勉によって立身出世を遂げ、苦を忍んで英雄になろうとの決意を書き記している。すでに、世間的な成功を超えて真に偉大であろうと欲する少年であった。
 
 遠藤のこのような資質は彼一人が特別だったのではない。遠藤の祖父は仙台藩士であったが、維新後は農民として生き、有志と共に新政府の学制発布に先立って学校の創立に尽力する一方、自由民権運動に参加している。こうした活動があってこそ、遠藤のような将来ある若者を援助し育成する地域性も育ったのである。
 
 旧制二高時代は土井晩翠という良き師と出会い、土井の家の真向かいに下宿するほど公私にわたる深い繋がりがあった。当時、土井はすでにトーマス・カーライルの『衣装哲学』を翻訳していた。衣装に象徴される外見が人の内面に与える影響を文明史的な観点から論じたもので、『英雄論』とともに明治の多くの著名人に読まれた。偉大さに憧れる遠藤は、衣装を建築に置き換えて、国民の生活をその精神と共に良い方向にむけようと志したのではないだろうか。土井との交流は晩年まで続く。
 
 さて、ライトとの出会いは、学生時代に雑誌に掲載された記事を通じてである。帝大の授業に失望していた遠藤はライトの作品と手法に接し、再び建築に希望を見いだした。自らが理想とする建築家の役割を、明確で新しい理念と具体的な方法によってすでに実践しているライトの姿に心を打たれた。その後、授業で帝国ホテルを見学した際に新ホテルの設計をライトが受けるという話を聞き活発な質疑を行う。それが支配人として辣腕を振るっていた林愛作にも印象深かったようで、遠藤をライトに引き合わせるきっかけとなった。
 
 1914年(大正3)に描かれた遠藤の卒業設計のタイトルは「City Hotel」で、恐らくは帝都・東京に建つことを意図していたようである。外観はウィーン分離派風(注2)であるが、そのホテルの正面上部に「Bokuno Hotel」と掲げており、理想のホテルへの自負と若々しい憧憬が込められているようだ。

  8.卒業設計「City Hotel」立面図(東京大学大学院工学系研究科建築学専攻所蔵)。
 
◎注1/屋根に使われている瓦は、美術工芸タイルで有名な京都の泰山(たいざん)製陶所製。色彩とともに棟や軒の扱いが独特。壁や庇には、華やかで温かみのある凝灰岩の日華石を採用。
◎注2/1897年、旧来のアカデミーに離脱を宣言、新しい総合芸術を目指す。建築では、近代建築の諸条件を提示したО・ワーグナーの影響が大きい。

 
 
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