白い国の詩
2008夏号

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  東北の動物たち
 
山に生き、 里に生き、 今に生きる 秋田犬
日本犬の雄として品位と風格をもつ秋田犬は、もとは大館犬と呼ばれていた。
狩猟犬として、番犬として、人々の暮らしを支え、ときに闘犬として遊興をも生み出してきた。
雑種化していくのを憂いた秋田の人々は、全国に先駆け、種の保存へと乗り出す。
純血種の特徴と性質をもち、
大型犬として美観を備えた現在の秋田犬は、この100年におよぶ改良の歴史を物語っている。
 

 はるか太古の昔から、犬は人とともにあった。人類最初の家畜といわれ、日本でも縄文時代の遺跡から犬の骨や化石が発掘されている。その葬られ方を見ても、人間と同じ墓や墓所に埋葬されており、身近な存在だったことがわかる。
 
 日本の犬を系統で見ると、最北系、中北系、南方系の3つがあるという。秋田犬は、このうち最北系の寒さに強い犬になる。それを象徴するのが2層の被毛。今もその特徴は健在で、ふわふわとした毛のように見えても、触れるとまっすぐに伸びた硬い針毛が表面を覆い、その下にやわらかな綿毛がある。このダブルコートが、冬山で獲物を追う際の防寒具となった。祖先が山岳狩猟を行うマタギ犬だったというのも、うなずける。
 
 では、いつ頃から秋田県大館地方で飼われるようになったのか。その時期は、はっきりしていない。存在が注目されるようになるのは、江戸時代になってからのこと。大館城主の佐竹氏が、藩士の鋭気を養うために闘犬を奨励したという。それが、地犬の大館犬だった。
 
 闘犬は時代とともにますます熱を帯び、明治18年(1885)には政府の許可を得た闘犬場が設けられる。農家が多いこのあたりでは、正月、盆、農閑期などに、闘犬大会が行われた。なかでも大館を中心とする近隣が盛んで、豪農や旧家など裕福な家では2、3頭を飼い、仏慶事など人が集まる席の後は、闘犬を楽しむ風習があったという。
 
 里では闘犬や番犬として飼われ、山あいではマタギ犬として熊、イノシシ、猿、カモシカ等を追った。猟にあたっても吠えたてることはなく、静かに機を見て獲物を追う。身の危険を顧みず咬みつき、獲物を倒すまで離さないという。「足の犬」ではなく「頭の犬」といわれるのも、その性質による。体は今ほど大きくなくても、勇猛果敢な面を持ち合わせていた。
 
 同時に、明治の文明開化の世では、洋犬を飼うことが文化人のように思われ、概して日本犬よりも洋犬に価値が見出された時代にもなった。全国でも秋田と並んで闘犬好きの土地柄とされた四国の土佐(現在の高知県)では、さっそくブルドッグやマスティフ、ドイツ・ポインター、セント・バーナードなど、体が大きく闘争に強い洋犬との混合により、土佐犬を生みだした。秋田でも、日露戦争以後、樺太の半分が日本領となったことにより、樺太犬や北海道犬、さらに外国産大型犬のジャーマン・シェパードやグレート・デンとの混合犬が多くなってくる。
 
 土佐犬に引けを取らない犬をと、土佐犬との混合も多くなり、それらは「新秋田」と呼ばれるほど多数を占めるようになる。見た目は似ていても、尾がくるりと巻くのが新秋田とされたが、それさえも消えてしまうような状況。闘犬が盛んになるにつれて、より強い犬へと改良され、秋田犬本来の姿や性質が失われてきた。それを危惧して、大正初期になると、秋田犬の保存運動が高まりを見せてくる。その機運となったのは、天然記念物への指定が見送られたことだった。大正9年に内務省の視察団が大館を訪れたものの、雑種化が進んでいたため指定に至らなかった。このことをきっかけに、改良が行われるようになる。
 
 昭和2年には、大館町長であった泉茂家氏が発起人となって、秋田犬保存会を発足。日本で最初の犬の団体が誕生した。会員は、山奥の集落などに残る雑種化していない犬を探し出し、頭数を少しずつ増やしていく地道な活動を続けた。会の発足から4年後、日本犬として初めて天然記念物の指定を受けることによって、その活動は報われた。
 
 秋田犬がさらに全国に知れ渡ったのは、翌年に新聞で報道された、主を待ち続ける忠犬ハチ公の話題だった。大館生まれのハチの姿は、多くの人に感動を与え、「犬は3日飼えば、3年恩を忘れない」という言い伝えを印象づけることになる。
 
 当初「大館犬」と呼ばれた名称は、天然記念物に「秋田犬」で指定されたことから、しだいに一本化される。全国では「あきたけん」と呼ばれることが多いが、正式には「あきたいぬ」。地元、大館の人がごく自然にあきたいぬと口にするのも、それまでの結びつきを感じさせる。
 
忠順に仕え、果敢に挑む 人とともにあった同志。
 
 天然記念物に指定された後、秋田犬を純粋化する運動はますます盛んになっていく。だがそれも、第二次大戦の影響で一変。軍用犬として駆り出され、戦地で亡くなる犬も多かった。国内は食糧難となり、人間ですら食に困る時代。餌を多く必要とする大型犬は、非難の対象となった。軍用コートの毛皮に使う目的で狙われ、放し飼いにしようものなら、すぐに捕えられた。そんな情勢の中で、人目につかないように犬を隠し、守ってきた秋田の人たちがいた。
 
 終戦後、かろうじて残っていたのは十数頭。進駐軍のアメリカ兵が秋田犬を好んだことや、世情の不安感から番犬としても秋田犬の人気が高まった。需要の高まりとともに、シェパードなど大型犬と混合され純血は後退したが、一気に頭数が増えたことで絶滅の危機は避けられた。終戦から2年後に早くも、秋田犬保存会が展覧会を開き、30頭あまりが出陳されたのも、犬好きの土地柄を表している。翌年には出陳頭数も倍増した。
 
 その頃は、大館にも多くの秋田犬がいた。この地に生まれ育った60代の女性は、懐かしそうに振り返る。
 
 「子どもの頃は、たいがいの家で秋田犬を飼ってたもんだ。昔は放し飼いのような、番犬のような感じで育てたからな。今飼っているのは、近くでも1軒か2軒になった。あとはいねえもんな。番犬の頃は、人が来れば吠えたが、性格はわりとおとなしいな。尻尾がかわいいもんな、秋田犬は」。
 
 この頃はまだ、今のように栄養バランスを考えた食事ではなく、「残りものや魚の小骨などを与えた」という人もいる。毛色は今と同じような栗毛の犬が多かったが、農家で忙しく、犬に手をかけられず、番犬として生きた時代だった。
 
 
 
 
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