白い国の詩
2008夏号

特 集
言葉の泉
歴史街道をあるく
東北の動物たち
食の文化誌
港紀行
東北の技
藝 能
 
トップページへ戻る
●「TOKYO」/1968年、紙本墨画、額装、180.0×181.0cm、新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵。現代的な水墨画の表現として果敢に挑んだ意欲作。当時は周りにまだ超高層ビルがなく、東京タワーだけが孤高の存在として銀箔の空間に屹然と建っている。都会の寂寥感のなかに、恩師も亡くなり、無所属で一人活動する操の心境が映し出されているようである。

 
 
 
 
美の魁たち
ほとばしる激情と 深い優しさを秘めた 魂の日本画
横山 操
 
●「炎炎桜島」/1956年、布彩色、パネル5枚組み額装、241.5×454.0cm、新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵。 青龍社37年の歴史の中で2人しか受賞者がいなかった青龍賞を受賞した作品。 桜島の持つ計り知れないエネルギーの塊が、操の絵画に対する激情とともに表出されており、客観的な見方と新しい感覚に溢れ、豪放で大胆な作風が当時の人々の注目を浴びた。
 
 
大自然の力の凄まじさを、圧倒的な迫力で描いた。
 
 1956年(昭和31)5月、京都の取材旅行のあと、一人で鹿児島に行き、のちの操の絵画人生に大きな転機を与えることになった、桜島の大噴火に遭遇した。取材から3カ月で仕上げられ、第28回青龍展に出品された《炎炎桜島》は青龍賞を受賞する。青龍賞は、青龍展の出品者の中から社人以外の人に与えられる最高の賞で、青龍社創設からの27年の歴史の中で、操が2人目の受賞者であり、以後青龍社の解散まで次の受賞者は出なかった。
 
 操は翌年の青龍展に《塔》を出品した。7月6日の未明、東京の上野谷中天王寺にある五重塔が焼け落ちたニュースを聞いて、直ぐに現場に駆けつけ、鎮火したばかりの状況を取材。焼け落ちた柱や屋根を、黒色の垂直と水平の太い直線で、力強く描き出し、焼け落ちた塔の姿を生き生きと再現した。操にとって、この2作品は横山様式を確立するものであった。
 
 生涯の盟友となる加山又造との初めての出会いは、この年の「加山又造個展」であった。以後親しい付き合いが始まり、さまざまな展覧会の会場で作品を並べる機会が多くなった。1959年には、当時の新進日本画家3人を集めたグループ展がスタートした。横山操をリーダーに加山又造、石本正の同年代による若手作家の会で、会の名称は3人が並んで画壇を押し進むように、「轟会」と操によって名付けられ、のちに平山郁夫も加わった。
 
 
 操は1961年(昭和36)4月末から40日間渡米し、カリフォルニア、ニューヨーク、アリゾナなどでスケッチ旅行を行ない、多くの収穫を得た。操の言葉によれば「人間が自然を愛するあり方」を考えさせられ、「自然の造り成した無限の構成美」に日本画に対する再認識をし、色彩に新生面を得ている。翌年の第5回現代日本美術展には、このアメリカ旅行の成果として《ウォール街》を出品した。自然に対する想いは、この後の青龍社の脱退以後、水墨画への傾倒となって操の作品に形を現してくる。
 
 1962年4月、第11回五都展に1枚の《赤富士》が出品され、画商たちの注目を浴びた。富士山はそれまでにも多くの画家が手がけた画題であり、特に操が尊敬していた横山大観、川端龍子の二人も富士山を描いていた。操が描いた赤富士は、高度成長時代の日本を象徴するかのような作品で、親しみやすさとわかりやすさで日本人の心を捉えた。大衆的な支持は、操を一躍日本画壇の人気作家としての地位に押し上げ、その後の作家人生に大きな影響を与えることとなった。
 
 同年6月、秋の青龍社展への取材のため北海道に渡った操は、偶然にも十勝岳の噴火に遭遇した。大自然の驚異を目の当たりにした操は、この時の噴火を脳裏に刻み込み、わずか2カ月の期間で《十勝岳》を制作した。幅が6.3mのこの作品は、立ち上る噴煙と駆け下る溶岩流が力強く描かれており、圧倒的な迫力を持って大自然の力の凄まじさを訴えていた。しかし、展覧会に《十勝岳》を出品しようとした時、作品の大きさが社人たちの間で問題になり、これを契機として操は青龍社を脱退することになった。
 
 その半年後の1963年2月、無所属となった操は水墨による「越後風景展」を開催した。一人になってからは、魂の安らぎを求めるかのように水墨画を描き始め、横山大観への傾倒もこの頃から顕著に現れ始めている。
 
 「越後風景展」の作品は、生まれ故郷の越後平野の自然を描いたもので、これまでの画風と異なり、「静」を求める新たな変化が現れている。操は、墨と膠と胡粉によって伝統的な水墨の世界に取り組み、新しい日本画の可能性を追求していった。新たな出発を新しい水墨画に賭けた操は、そのわずか4カ月後に「横山操 屏風絵展」を開催し、水墨による《瀟湘八景》を発表した。屏風絵と名付けられた《瀟湘八景》の作品には、筆勢の凄みと精神性の高まりが見られ、操の想念は、最初の一枚から最後の一枚に至るまで、破綻をきたすことはなかった。
 
 
 1964年(昭和39)9月、アメリカとヨーロッパを旅行している途中、操はイタリアのシエナで心臓発作を起こした。幸い症状が回復し帰国したあと、彩色を施した緻密で叙情的な作品を多く描き始めた。富士を始めとした国内の風景、アメリカ、フランス、イタリア、中国などと画題は広がりを見せ、琳派や静謐な趣を持った日本人の郷愁を込めた作品も描くようになった。
 
 また、青龍社時代には後進の面倒を良く見ていた操であったが、加山又造から多摩美術大学で日本画を教えないかとの誘いを受けた。操は大学で授業を受け持ち、次世代を担う若い学生たちを育成することによって、日本画の未来に懸ける期待を託した。
 
 「越後風景展」と「屏風絵展」が開催されてから5年後、水墨による《越路十景》が発表された。《越路十景》の作品からはこれまでの力強い激しさはまったく見られず、精神の安らぎを感じさせる優しさと、故郷に対する暖かい想いが伝わってくるものであった。この年の5月には、第8回現代日本美術展に、水墨の新しい試みとして《TOKYO》を発表した。東京タワーが銀箔の上に墨一色で描きあげられたこの作品は、変わりゆく当時の東京の姿を象徴するものであった。
 
 
 青龍社の脱退後、順調な作家活動を行なっていた操であったが、シベリア抑留中の炭鉱労働による無理と、過度の飲酒は徐々に操の身体を蝕んでいた。1971年(昭和47)4月29日、突然脳卒中で倒れ、右半身不随の状態となった。操は絵を描きたいという熱情と強靭な精神力で、左手による制作の訓練を開始し、1年半後、驚異の復活を成し遂げた。
 
 操の復活は多くのコレクターを始め、画商たちからも待ちわびられていたが、1973年3月26日、制作中に再び脳卒中で倒れ、不帰の人となった。操の死の間際に立ち会った加山又造は、その時の様子を次のように書き綴っている。
 
 「彼は、死の間際に、日本画が崩れおちる危機を叫びつづけた。彼の心には、変転し、流動しつづける時代に在って、日本の美しさ、日本の美意識、それを表現し得る唯一の絵画技法である日本画の、現在と未来に死の床で絶叫した、『日本画はどうなる』の声は、私の耳もとで私自身、その意味のいまだわからぬまま、きこえ続ける」(注3)。
 
 わずか23年の短い制作期間であったが、残された数多くの作品群は、死後30年以上経った現在も変わらぬ光彩を放ち続けている。戦後の日本画壇に彗星のごとく現れ、新しい日本画の可能性を示し、時代を代表する日本画家として、操は今なお現代の作家たちに多くの影響を与え続けている。
 
●「十勝岳」/1962年、布彩色、パネル7枚組、243.2×639.0cm、新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵。
操が青龍社を脱退する原因となった作品。大画面からは噴火によって噴き上がる煙、駆け走る水蒸気の凄まじさが、あたかも眼前に繰り広げられているように伝わってくる。
大自然の驚異がいやおうも無く圧倒的に迫り来る臨場感溢れる作品であり、操は飛行機から直接現場を取材し、わずか2カ月あまりで一気に描き挙げた作品である。
 
●注3/加山又造「横山操の『遺作展』によせて」、『横山操展』図録、1986年、新潟県美術博物館・西武美術館。

 
 
 
前のページ 次のページ

トップページへ戻る ページトップへ