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操は終戦後中国で捕虜となり、シベリアにある炭鉱の街に10年間抑留され、石炭採掘に従事していた。帰国後、同じ事務所に勤めていた杉田基子(操夫人)をモデルにして、水汲みの壺を頭に乗せシェーバー(毛皮の外套)を着て歩く、カザフスタン地方の女性の印象を描いた作品。 |
1920年(大正9)、新潟県の農村地帯である蒲原平野に生まれた横山操は、尋常高等小学校時代から絵を描き始め、卒業後14歳で画家を志して上京。洋画家・石川雅山の家(一壺堂図案社)に住み込み、版下やポスター描きを手伝いながら、画家としての道を歩み始めた。 18歳の時《街裏》が光風会展に初入選したが、翌年日本画に転向し、川端画学校日本画部夜間部で学び始めている。次の年、青龍展に《渡舟場》を出品したのが、生涯の師となった川端龍子との出会いにつながった。この時操は20歳で、会場で龍子から「これが君と、青龍社をつなぐ、渡し舟になってくれるといいね」(注1)と、声をかけられたのが青龍社との縁となった。 第二次世界大戦に従軍し、終戦と同時に、極寒のシベリア(現在のカザフスタン共和国にあったカラガンダ収容所)に捕虜として抑留され、過酷な石炭採掘に従事しながら生き延びた。1950年(昭和25)2月、日本に復員した時、操はすでに30歳になっていた。のちに「戦後日本画の風雲児」と呼ばれ、日本画壇に新生をもたらし、現代日本画にも多くの影響を与えた横山操の帰国であった。 ●
帰国後、操はいったん故郷の新潟県西蒲原郡吉田町(現燕市)に戻ったが、4月には春の青龍展を見に上京、そのまま郷里に帰らず、再び石川雅山宅に寄宿して絵を描き始めている。 不二ネオン会社デザイン部に就職して、昼はデザインの仕事を、夜は石川家の一壺堂図案社の仕事を手伝いながら、独り東京での生活を始めた。戦争で失った時間を取り戻すかのように精力的に作品を制作し、4カ月後の9月に開催された第22回青龍展には《カラガンダの印象》を出品、青龍社への復帰を果たした。 1951年(昭和26)4月、春の青龍展に《カザフスタンの女》を出品。頭に水瓶を乗せて歩く女性のモデルとなった杉田基子とは、出品後すぐに結婚式を挙げた。9月の青龍展では社子に推挙され、翌年3月には長女の彩子が誕生するなど、仕事も家庭も順調な滑り出しであったが、制作費はかさむものの作品は売れない状態で、絵具代や生活費にも事欠く状況が当分の間続いた。デザインの仕事としては森永製菓の広告塔が銀座に設置され、東京を象徴するシンボルの一つとして、83年(昭和58)まで飾られている。 1953年、春の青龍展で《白壁の家》が春展賞を受賞した。これを最初として、6年間で11回連続して受賞し、研究会に入ってからわずか3年で青龍社の社友に推挙され、一躍若手のホープとして活躍した。 ●
1956年(昭和31)1月、銀座松坂屋の会場に飾られた5点の大作《溶鉱炉》《網》《川》《架線》《木》は、それまでの操のイメージを覆す作品群であった。九州の八幡製鉄所を描いた《溶鉱炉》は幅が10.9m、《網》は8.5m、《川》は6.5mもある大作で、観客を圧倒し、新しい日本画の表現の可能性を感じさせた。 この時にのちの操の作品の特徴となる、明解な縦と横の線を用いた基本的な構成が生まれている。展覧会を見た加山又造は、「横山操の画面は垂直水平、その組み立てに対しての対角線で構成され、その組み立ては計算がよくゆきとどいてみごとであり、殊に垂直線の正確さは素晴らしい」(注2)と印象を述べている。 これらの作品は、力強く汚れたような感じを抱かせたが、現実的で日常的な情景は親近感があり、近代日本画が求めた写実性とはまったく異質な、戦後の日本画が模索し葛藤していた、「新しい日本画」の出現を思わせた。これまでの華やかな装飾性を真っ向から否定し、黒を基調として画面を構成する操の制作姿勢は、日本画の在り方に対して問題提起をするものであった。 ●注1/横山操「人間修業」、『三彩』増刊(追悼 川端龍子)、1966年、三彩社。 ●注2/加山又造「横山操の『遺作展』によせて」、『横山操展』図録、1986年、新潟県美術博物館・西武美術館。 |
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