ここからサイト共通メニューです。

サイト共通メニューをスキップします。

東北電力

 

「東北電力第35回中学生作文コンクール」
秀賞

家族
岩手県大船渡市立末崎中学校
三年 笹野 樹里

 私は、家族の事が大好きだ。家族は私にとってかけがえのない存在だ。そんな家族について考えさせられる事があった。
 それは、祖父が認知症になったことだ。私が十才の時だ。
 私は、小さい頃から祖父の事が大好きだった。帰りが遅いと心配して迎えに来てくれたり、私が母に怒られていると必ず味方になってくれた。また、祖父は、牡蠣の養殖業を営んでいた。祖父は、家にいる時の穏やかな顔からは想像できないような厳しい眼差しと、グローブのように大きい手を使い、慣れた手つきで仕事をこなしていた。今でも忘れることはない。私は小さいながらも祖父に憧れを抱き、大きくなったら一緒に仕事をすることが将来の夢になっていた。そんな「いつか」に向けて、できる手伝いはたくさんしてきた。
 しかし、私が小学四年生の頃から、祖父の様子がいつもと違う、と思い始めるようになった。同じ事を何回も聞くようになったり、落ち着きがなかったり、怒りっぽくなったりと、以前の祖父からは想像できないことが重なっていった。病院で診てもらうと、私達家族の予想通り、「認知症」だった。予想していたものの、はっきりと言われたことでのショックは大きかった。詳しく病状を聞いていくと、それは祖父の行動と、全てあてはまるくらいだった。しかし、わずかな希望も残った。認知症は、治らない病ではない事もあるというのだ。母と祖母、そして私は、家族で支え合いながら、がんばろうと話し合った。
 しかし、祖父の病気はどんどん悪い方向へ進行していった。物忘れがだんだん激しくなり、自分のうまくいかない事があると、祖母にあたるようになった。初めは仕方ないと思っていたが、その頃小学生だった私は二人の激しい口論に耐え切れず、陰で泣いたり母に電話をして様子を訴えたりもした。
 やがて、祖父は知り合いの人の事も分からなくなっていった。自分の船や仕事の仕方も分からなくなり、漁業を続ける事が出来なくなった。ある時、私は納得が出来ず、祖父と一緒に海へ散歩に行ったり、漁業道具の使い方を改めて聞いてみた。しかし、あれほど漁業という仕事に情熱を傾けていた祖父の記憶は、戻らないままだった。私は悔しくて悔しくて涙が出そうになった。それでも、祖父に気づかれないよう、こらえて笑顔を作っていた。
 そんな状態の中でも、祖父が本来の祖父に戻る瞬間があった。そんな時、祖父は私の前では祖母とけんかをしないようにしてくれた。私は祖父の優しさにまた涙が出そうになった。また、祖父は時々落ち込んでいる時もあった。「どうして、こんなになったんだろう。」祖父のこの言葉を初めて聞いた時は、「強くなって支えてあげよう。」と強く思った。
 次の日から、「名前」「住所」「電話番号」など覚えておいた方が良い事を繰り返し聞いた。調子が良い時は、いつも歌っている歌を一緒に歌ったりもした。しかし調子が悪い時は、昔から頑固な性格のためか病院にも行ってくれなかった。外で食事をしている時も途中で帰ろうとしていたり、大変な事も多々あった。
 ある日、いつもの様にけんかが始まった。しかしなかなか収まらず、祖父の興奮が増していくばかりだった。止みそうになかったので、病院に行った。私は心配で心配で涙が止まらず、心が折れそうだった。この日はなんとか落ち着いたが、その日を境に祖父の認知症は急激に進んでいった。口数も少なくなり、歩けなくなり現在に至っている。
 しかし、認知症がかなり進行してしまった祖父がそれでも私に感動をくれる事がある。それは孫の私の事を決して忘れていないことだ。祖父は私の顔を見ると表情がパッと明るくなる。私はその顔を見ると、とてもうれしくなる。その祖父の顔は、私が小さい時に見ていた優しく力強かった、あの頃のままだ。私は、顔をずっと覚えていてもらえるように朝、昼、夜の挨拶はもちろん、時間のある時祖父の部屋に行き、顔を見せるように心掛けている。確かに祖父は、普通に話す事は出来ないが、目と目で会話をしている。例え姿が変わっても、私の祖父に対する気持ちは変わっていない。大好きだ。これからも、たくさん会話をして私の事を忘れずに笑顔でいてほしい。うれしい時や不安な時、どんな時でも目と心で伝えてほしいし、私も伝えていきたいと思っている。これから一緒に生活する上で大切な事は、家族全員で協力する事だと思っている。祖父は今、とても幸せそうだ。私が小さい頃にもらった優しさを、今度は私が感謝の心を伝えるために笑顔で返していきたい。それが祖父に対する最高の「恩返し」だと思うから。

 

(C)Tohoku-Electric Power Co.,Inc. All Rights Reserved.