◎現地からのメッセージ

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やじるし

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事務局の青山貴博氏

事務局の青山貴博氏

業種を超えた連携で「新しい女川町」をつくる

  • 女川町復興連絡協議会
  • 事務局 青山貴博氏(女川町商工会 経営指導員 主幹)

多くの方が犠牲となった宮城県の女川町で、水産業、商工業などの業種を超えた連携が生まれている。地元の人たちが立ち上げた女川町復興連絡協議会だ。民間の立場から復興のグランドデザインを行政に提案し、女川町の復興と再生に取り組んでいる。

水産業だ、商工業だと言っている場合じゃない

東日本大震災からおよそ1か月後の2011年4月12日。連絡もままならない中、口伝えで集まった人々がいた。女川町商工会の会長、高橋正典さんの呼びかけに応じた水産業や商工業などの地元関係者だ。

およそ1万人が住む女川町では、死者・行方不明者が人口の1割におよび、住宅の7割が流出した。高橋さんは「この災害から立ち直るには、商工会だ、水産業だ、商店街だ、と自分のテリトリーからの発言だけでは前進できない。みんな一緒に町の未来を考えて、行政に提案できる団体をつくろう」と呼びかけたのだ。かまぼこの製造業を営む高橋さんは、商工業にも水産業にも関わりがある。だからこそ、一致団結が必要だと考えた。4月19日に設立総会を開き、女川町復興連絡協議会(以下、女川FRK)が立ち上がった。最初の会合からわずか1週間でスタートできたのは、東北電力の協力のもと、2010年度に実施した女川町の将来を考える「女川まちづくり塾」が核となったからだ。

女川町商工会の職員として「女川まちづくり塾」に携わった青山貴博さんは、女川FRKの事務局も担当している。「高橋会長は、復興には長い時間がかかるから30代や40代の若手が自由に発言できる組織にしよう、そのためには俺が弾除けになればいい、と当初から話していました」と語る。

女川FRKの構成員は42名。それぞれ役職名はあるものの「全員が理事で平会員」(青山さん)。高橋会長を中心に、みんなで話し合ったことをまとめていくフラットな組織だ。女川FRKという場をつくったことで、高い能力とスキルを持つ若い人材が次々と入ってきた。青山さんは「たいていの人とは知り合いでしたが、以前は気付きませんでした。深く関わってはじめて彼らの才覚を知ったのです」と振り返る。

「住み残る」「住み戻る」「住み来たる」の実現へ

町長と議会に提出した提案書

町長と議会に提出した提案書

隠れた人材を掘り起こした女川FRKで自由に意見をぶつけ合う日が続く。すると、徐々に互いの業種を慮った提案が出てくるようになった。「異業種の話を聞くことで『そういう話なら、こんな協力ができるよ』といった話がポンポン出るようになりました」と青山さん。女川町を復興させなければ、産業の再生もない。だから、みんながつながって1+1が3にも4にもなるような方法を模索した。

女川FRKは主に町役場と話し合ってきたが、2012年1月30日に3部構成、計60ページにもおよぶ提案書を町長と議会に提出した。「提案がそのまますべて採用されないかもしれませんが、1つの民意として提出したかったのです」と青山さんは語る。

提案書は復興に向けたグランドデザインと基本的な考え方を示したもので、キーワードは「住み残る」「住み戻る」「住み来たる」。

女川町の人口は2012年1月末で8,410人だが、町外に暮らす人も多いと見られ、これ以上減ってしまったら復興はさらに困難になる。だから、今いる町民が「住み続けられるように」、一時的に避難している人も「戻ってこられるように」、女川町に住みたいと新たに「人が来るように」するにはどうすべきかという観点から提案した。生活弱者のことも考えたユニバーサルタウン、緊急時対応も踏まえた街区設計、産業振興のためのさまざまなアイディアなどが盛り込まれている。

また、これらのプランを内閣府や国土交通省、県庁などにも提案している。女川FRK戦略室 室長の黄川田喜蔵さんは、震災を機に帰郷。東京で培った人脈を通じて、生まれ故郷に対する支援を取りつけようと日々飛び回っている。

風化させないための情報発信を

ブックタイプの「女川カレー」

ブックタイプの「女川カレー」

女川FRKの目下の悩みは、活動資金の確保だ。これまでは活動の趣旨に賛同した人たちからの寄付によって賄ってきた。しかし震災から1年が経ち、支援金の集まりが思わしくない。被災者が会員なので、会費を集めて、というわけにもいかない。そこで新たな支援先を探しながら、女川FRKを一般社団法人化して営利事業を立ち上げ、その収益をもとに運営しようとも考えている。

「町役場から助成金などで支援してもらう手もあるでしょう。しかし、私たちは行政に対してまちづくりを提案するために集まりました。もしお金をいただいてしまったら、自由闊達な民意をという部分に説得力が薄れてしまいそうなので、極力頼らずに活動したい。」と青山さんは笑う。

女川町ではいくつかの復興プロジェクトが進んでいる。被災者が手作業でつくるスタイリッシュな木製キーホルダー「onagawa fish」や女川町の主婦がつくるカジュアルなぞうり「おながわ布ぞうり」など。女川町商工会は「女川カレーBOOK」を販売している。

「神奈川県鎌倉市から来てくれたボランティアさんたちの炊き出しから生まれた商品で、身体が温まりやすく体温を逃さないようにスパイスを調合しています。販売員として女性を1人雇用しました。今は鎌倉でつくってもらっていますが、女川町に製造拠点を設けて雇用を生み出したい」。いずれ飲食店が復活したときにそれぞれのお店で「女川カレー」をつくって、女川の観光資源にしていきたい――。青山さんの夢は広がる。

しかし震災から1年が過ぎた今、「情報の風化が進んでいる」とも感じている。青山さんはあの日、4階建てのビルの屋上にあった給水塔によじのぼって九死に一生を得た。「足もと50cmまで水が来ました。これはダメだ……と死を覚悟しましたが、幸い水は引いていき、助かったのです」。請われれば、そのときの体験と女川町の現状について話をしに行く。業務が多くて目が回るような忙しさだが取材は断らない。被災地がまだ先の見えない戦いの途中であることを知ってもらいたい、風化を食い止めたいとの思いからだ。

実際に女川町の中心市街地では、ガレキはどけただけで山積みになっている。被災しなかった私たちに、いったい何ができるだろうか。

「被災地が進めているプロジェクト、女川町ならば『女川カレーBOOK』や『onagawa fish』ですが、これを1人でも多くの人に知らせてもらいたい。できれば皆が購入してくれるようなやり方で情報発信してもらえたらとても嬉しいです」。

2012年2月取材